市田柿のふるさとウェブ版
豆知識「なるほど!!市田柿」
明治・大正は養蚕の時代
明治時代に入り、諸外国との貿易が始まると、商品作物として収益の高い養蚕業は急速に広がりました。長野県では、春蚕のほかに夏秋蚕の飼育を増やすことで養蚕業が発展し、水田を桑園に変える農家も増え、明治十年代末には府県ごとの繭産額で全国一位になっています。
しかし、明治初期から昭和初期にかけて発展した養蚕業は、昭和四年(一九二九)の世界大恐慌による暴落やアメリカでの人絹工業の発達の打撃を受け、昭和五年(一九三〇)をピークに衰退へと向かいます。
飯田・下伊那地域でも養蚕は主力産業でしたが、昭和初期には、養蚕に変わる次の作目として果樹栽培に目が向けられるようになりました。昭和四年二月、市田小学校において、市田村、下伊那郡農会、県農業試験場主催の「果樹普及講演・講習会」が開催されました。講師として招かれた橋都正農夫(下伊那郡農会長)は、低迷する養蚕業に変わる果樹栽培の有望性を説いたといいます。