「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第3章 全国ブラントへの道のり

全国ブラントへの道のり

「焼柿」から「市田柿」へと改称し、各地の中央市場へ進出した大正時代。戦争中に行われた皇室や靖国神社への献上は、市田柿の名前を全国へ広めるきっかけとなりました。戦後は、栽培・加工の技術も向上し、機械化で農家の規模拡張も進みました。長野県初の地域ブランドに認定され、健康食品としても注目が集まっています。

焼柿から市田柿へ改称

【東京、名古屋、大阪の市場へ進出】

県立農事試験場下伊那分場の開設

明治時代に入り、元旦の「歯堅め」の儀式が改暦によって廃止されたことや養蚕業の発達が重なって、飯田・下伊那地域の柿の生産額は減少傾向にありました。さらに、明治十年(一八七七)に始まった西南戦争によるインフレや、その後の明治政府のデフレ政策で農産物の価格が下落し、農家の生活は困窮していました。

そこで持ち上がったのが、伊那郡立農事試験場の設立です。明治二十八年(一八九五)に、上郷村(現在の飯田市上郷)に開設されました。その後、上飯田村(現在の飯田市東野)に移転し、飯田測候所が併設されるなど、規模を拡張しながら研究が続けられましたが、残念ながら明治三十六年(一九〇三)に廃止となっています。

しかし、伊那谷は長野県内でも独自の気候風土にあるため、農業試験場開設を要望する声は大きく、大正十五年(一九二六)に市田村(現在の高森町)に県立農事試験場下伊那分場(現在の長野県南信農業試験場)が完成しました。園芸部長となった小太刀文作技手は、梨、リンゴ、桃、柿などの品種試験を積極的に行い、飯田・下伊那地域が全国有数の果物生産地へ躍進するきっかけになりました。

市田柿に改称し中央へ進出

明治二十一年(一八八八)に行われた「下市田柿樹調査」の記録には、下市田村内の柿樹数は七百二十八本(うち甘柿二百十四本、渋柿五百十四本)とあり、渋柿の種類には、焼柿(二百四十二本)、渋柿(二百四十七本)、ハチ谷(十七本)などがあげられています。下市田村の戸数は三百二十一戸でしたから、各戸に平均二本の柿の木があったことになります。多くは庭や土手、畦に植えられて、自家用で消費されていたようです。

そんな中、二章でも紹介したように、大正初期、上沼正雄は萩山神社の上に広がる約二ヘクタールの斜面を開墾し、焼柿の苗木を二百本植えたといいます。そして、大正十年(一九二一)、橋都正農夫が焼柿から「市田柿」への名称変更を県に申請し、酒井安を団長とする下市田区壮年団の事業として、東京、名古屋、大阪の各市場へ市田柿を出荷しました。

合計三千箱にのぼる大規模な出荷でしたが、中央の各市場における市田柿の評価は予想外に低く、「骨折り損の結果(酒井安談)」だったといいます。

柿品種調査展覧会に市田村の三人が入選

大正十三年(一九二四)十一月、長野県立農事試験場と日本園芸会長野県支会の主催で「長野県柿品種調査展覧会」が開かれました。これは、明治四十一年(一九〇八)から四十四年(一九一一)にかけて農商務省農事試験場園芸部が行った全国の柿を対象にした調査研究をもとに、長野県内の柿の優良品種を調査決定し、普及させるために開催されたものです。出品された果実のなかから良種を選抜し、さらに生産樹の病害虫の抵抗性などを調査した上で優良種が決められました。

出品された柿果は全六百八十五点(うち下伊那郡の出品は五十四点)で、甘柿二十六種、渋柿三十八種に分類して調査が行われました。その結果、優良品種には、甘柿十三種、渋柿十種の計二十三種が選ばれ、焼柿(市田柿)は、用途別「白柿用(干柿)」の優良品種に決定しました。また、優良品種の出品者として、市田村在住の羽生茂一、山岸鉄造、木村庄蔵の三人が入選しました。

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第3章 全国ブランドへの道のり

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