「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第3章 全国ブラントへの道のり

戦争に翻弄される市田柿

【戦争中、皇室や靖国神社へ市田柿を献上】

適地適品種に指定され、進む商品化

大正十年(一九二一)に上沼正雄、橋都正農夫、酒井安らが中心となって取り組んだ東京など中央市場への進出は、予想外の失敗に終わりました。

しかし、上沼正雄は、その後も干柿の先進地である山梨県、福島県、岐阜県などを訪ね歩き、商品化に向けて生産・加工の研究を続けました。上沼は、飯田・下伊那地域に落葉病予防のボルドー液消毒、火力乾燥、硫黄薫蒸など、干柿の加工技術を伝えた第一人者であり、市田柿の商品化に取り組んだ先覚者でした。

県立農事試験場での試験や調査、柿品種調査展覧会の結果などをもとに長野県が飯田・下伊那地域の適地適品種として市田柿を奨励したのは、大正末期頃のことです。養蚕業の衰退に反比例するように果樹栽培に注目が集まり、リンゴ、梨を中心に、柿の苗木も次々と新植された頃です。市田柿についても、苗木育成や樹齢二十?三十年以下の若木向けの高接技術についての指導が頻繁になされたといいます。

市田村農会(現在のJAみなみ信州高森支所)では、上沼正雄、下市田区青壮年団らによる柿栽培改善策を受け、市田柿の商品化に向けた集荷・販売事業への熱心な取り組みが見られました。

菓子の代わりに珍重された市田柿

昭和十六年(一九四一)に太平洋戦争が始まると、果樹は贅沢品とされ、農地作付統制規則の公布によって新植が禁止されました。さらに、昭和十九年(一九四四)には果樹の一部強制伐採が進められました。長野県内の柿の作付本数も、戦前に比べて四?五割ほど減少しました。

しかし、食糧が不足していた戦中戦後は、市田柿は糖分補給や菓子の代用として珍重されました。子どもたちは柿むきの手伝い賃に、むいた皮をもらって乾燥させ、渋みの抜けた皮をおやつ代わりにしゃぶったといいます。ついには砂糖代わりに柿の皮を販売する人も現れたそうです。

皇室へ市田柿を献上

昭和十八年(一九四三)一月、市田村長関川一実と女子青年会の代表三名が上京し、靖国神社、明治神宮、山階宮家などへ市田柿を献上しました。これは「銃後の女性の真心を護国の英霊に示したい」という気持ちの表れとして各新聞に取り上げられ、市田柿の名前を全国に広める一助となりました。記事には、献上された市田柿について「女子青年団員二百五十余名が各自の家々にある柿の木の中の最も秀でた木から数個づつを選びそれを国民学校に持ち寄って二カ月余りの間丹精をこめて…」と書かれています。献上は、昭和十九年(一九四四)、二十年(一九四五)にもそれぞれ行われました。

昭和二十年の市田柿の献上が縁となって、市田村から久邇宮家へ侍女を参殿させるようお召しの電報が届いたこともありました。市田村で協議した結果、大島山の後沢清子を推薦することになり、彼女は、終戦で局制度が廃止になるまで、久邇宮家に参殿し子どもの教育係として働きました。

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第3章 全国ブランドへの道のり

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