「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第3章 全国ブラントへの道のり

すすむ機械化と衛生管理

【柿むき機、柿のれんの進化】

干柿づくりは家族総出で

干柿づくりは、生産農家が加工まで行う場合がほとんどです。昔から、家族や親戚、近所の人が集まって、生柿の収穫や柿むきの作業が行われました。収穫から出荷までの期間が短いこともあり、大勢で一気に作業をする必要があったわけです。

戦後まもない頃までは、昼間に収穫した柿を囲炉裏端に積みあげて、「千重」(写真?)と呼ばれる柿むき器を手に一つひとつむいていました。夜のうちにむいた柿は、翌日、ワラや縄で吊して軒下に干されました。柿の収穫は男性の仕事、干す作業は女性の仕事と分かれていて、夜の柿むきは、大人も子どもも男女の区別なく大勢で行われていたようです。

押し寄せる機械化の波

昭和二十年代後半、柿を針で刺して機械に固定し、ハンドルを回すだけで皮がむける手動の柿むき器(写真?)が登場しました。片方の手でピーラー(皮むき器)を持ち、柿にそっと当てながら、もう片方の手でハンドルを回すと柿が回転して皮がむける仕組みで、柿むき作業には画期的な発明でした。

その後、足踏み式で柿が回転するタイプや、皮のむけた柿を触ることなくはずすレバーの付いたタイプ(写真?)など、改良器が次々と開発されました。

次の機械化の波は、飯田市上郷の北原利雄が昭和四十年頃に考案したモーターを使った自動柿むき機(写真?)とともにやってきました。機械いじりが好きだった北原は、柿むき作業の省力化を目的に考え出したといいます。昭和四十三年(一九六八)に完成した一号機は農協で実演会が行われ注目を集めました。最も広く普及したのは、平成六年(一九九四)に登場した全自動柿むき機「ムッキー」(写真?)です。柿を機械に置くだけで、ヘタ処理から皮むきまでの全工程を自動で行えるようになりました。全自動機を導入して規模を拡大する農家も現れ、生産量増加にもつながりました。

最近は、針で刺さずに吸盤で柿を固定するタイプ(写真?)が登場してきています。針固定の場合、刺し穴からカビが発生する恐れもあることから、今後は地域全体の方針として、吸引式柿むき機に移行するようです。

風物詩「柿すだれ」も時代とともに改良

伊那谷の秋の風物詩にうたわれる「柿すだれ」。柿連づくりは、市田柿の作業のなかでも手作業の工程です。

果梗を残してヘタを除き、皮をむいた柿を吊す作業が「連づくり」です。昭和二十年代には、ワラ縄の縄目に柿の果梗を挟み込んで干していましたが、昭和三十年代には畳糸や凧糸が、昭和四十年代にはナイロン糸がそれぞれ用られるようになりました。

最近は、農協などが共同で開発し、平成八年(一九九六)頃から普及した「柿フック」が使われています。五センチ間隔のフックに果梗を差し込む作業の簡易さと、柿の糸切れ傷の防止など、衛生面が特徴となっています。

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第3章 全国ブランドへの道のり

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