「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第1章 市田柿の誕生

伊勢社の境内の柿の古木「焼柿」

柿は、奈良時代に中国から渡ってきたといわれています。江戸時代には飯田・下伊那地域でも干柿がつくられていて、立石柿は江戸でもたいへん有名でした。伊勢信仰がさかんだった下市田村に建てられた伊勢社。境内の柿の古木は、「焼柿」と呼ばれ親しまれ、接ぎ木によって村中に広められていきました。

奈良時代に中国から渡ってきた柿

【食用・用材として広く利用されていた】

渋柿の栽培は奈良時代には始まっていた

私たちが食べている柿は、日本をはじめ中国や朝鮮半島で古くから栽培されてきました。植物学上のカキノキ属に属する柿の仲間は、アフリカ以外の熱帯から温帯にかけて広く分布し、およそ二百種にのぼります。

日本にはヤマガキなどが自生していたという説もありますが、市田柿に用いられている渋柿は、奈良時代に中国から伝わったと考えられています。ちなみに、生食用の甘柿は、奈良時代以降鎌倉時代にかけて日本で改良されたものだといわれています。

柿は食用としてだけでなく、緻密な木質が好まれて、高級用材としても利用されてきました。古くは東大寺の正倉院にも、カキノキ科の木材を使った厨子「黒柿両面厨子」や献物箱「黒柿蘇芳染金銀山水絵箱」といった数々の宝物が納められています。

史料に残る柿の記述
黒柿蘇芳染金銀山水絵箱

最初に柿が文献に登場するのは『古事記』や『万葉集』のなかの地名や人名としてです。歌聖とも呼ばれた歌人柿本人麻呂の名前は「自宅の門のそばに柿の木があった」のが由来とされています。

その後、史料や文献に柿が登場してくるのは平安時代以降です。平安時代中期に編纂された律令の施行細則『延喜式』には、「柿百株」を栽培したという内容や、「干柿子二連」「熟柿子四顆」などが神殿に供えられたという記述があり、すでに渋柿が栽培・加工され、食べられていたことがわかっています。

また、三大古典説和集の一つ『宇治拾遺物語』には「柿の木に佛現ずる事」という、京の都の五条天神付近にあった柿の木を題材にした説話が残されています。同じく説話集の『古今著聞集』の巻十二偸盗の話にも渋柿が登場しています。

昔話にも「さるかに合戦」や「柿の大入道」など、柿の木が出てくるおなじみの話がいくつもあります。私たちが食べている柿は、日本をはじめ中国や朝鮮半島で古くから栽培されてきました。植物学上のカキノキ属に属する柿の仲間は、アフリカ以外の熱帯から温帯にかけて広く分布し、およそ二百種にのぼります。

飯田・下伊那地域は(古)東山道の要所

奈良時代から平安時代の頃、全国が五畿七道という行政区分に分けられ、七つの官道が整備されました。中国から伝来した栽培用の渋柿は、大陸との窓口でもあった九州地方から西海道、山陽道などを通って都へ伝わったと考えられます。さらに、それぞれの官道は都と地方をつなぐ幹線道だったので、行き交う人や馬によって、柿も日本各地へ広まったと想像されています。

飯田・下伊那地域は、奈良の都を起点に今の岐阜県、長野県、群馬県など本州内陸部を通って東北へと通じる(古)東山道の道筋にあたりました。そのことから、この地域でも早くから柿の栽培が行われたと推測されています。

『下伊那史』には、鎌倉時代弘安元年(一二七八)に日蓮宗の開祖日蓮聖人から伊賀良庄(現在の飯田市)の地頭代(と推定される)四条金吾頼基へ送られた礼状が紹介されています。これは『日蓮聖人御遺文』という史料に収められているものです。手紙には「串柿五把」と書かれてあり、鎌倉時代に飯田・下伊那地域で渋柿の栽培・加工がすでに行われていたことがわかる貴重な史料となっています。

柿の分類

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