「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第4章 寄稿・資料編(先人の軌跡をふりかえる)

先人が書き残した文章からは、各時代の市田柿に対する熱い思いが伝わります。市田柿の歴史とともに、先人の軌跡をふりかえり、私たちの未来に思いをはせます。

【資料】

市田柿について

武田彦左衛門

武田彦左衛門

市田郷、松岡の城主松岡氏は、累代敬神崇佛の念が篤くありました。特に伊勢神宮、諏訪大明神、八幡大神を崇し奉り、又臨濟宗に歸依いたしました。城下の鎭守萩山神社には諏訪大明神と八幡大神を奉齋し、その御射山祭には、城主躬ら麾下八拾騎を率ゐて騎馬の神事を執行したと傅へられてゐます。本社諏訪神社の大祭には御頭役に勤仕したことが、足利時代の長寛正あたりから應仁長享の頃に至る間が御符の古書に明らかであります。この様に領主が敬神に篤かったから、その領民もこの念に篤く、特に古くから伊勢神宮の崇をいたしました。

領内上市田には村社伊勢神社が鎭座ましますあり、戰國時代、天正の頃には伊勢より御師が參って、城内をはじめ廣く領内に大麻を奉戴せしめたことも明らかであります。
川時代に至って大神宮の崇は益々篤く、村内各地に伊勢講の發起結成があり、毎年交替に神宮へ代參を行って參りました。下市田の一講社の如きは、伊勢神宮の御分を勧
して、市場の北端、間ヶ澤川の南岸の地に社地を設け、一を造營してここに奉齋し厚い祭を怠らなかったのであります。今より凡そ百五十年前後のことであります。

年々御師が參って上下伊那の檀中を巡廻しましたが、この講中では伊勢社の境内へ屋敷を設け住宅を建立し、これに御師を住はせ且つ社附きの山林を經營し、祭典や修覆の賄に宛て、御師に対しては講中で手厚く一切の世話をいたしました。此の屋敷を今に至る伊勢屋敷と呼んでゐます。

この頃、伊勢社の境内の東南隅に一樹の神木燒柿の古木がありました。この柿は燒いて食べても、乾柿としてもまことに美味しいものでありました。當時柿といへば所謂山柿と称する澁柿ばかりで、何處の家の屋敷にも田畑の周邊にも数本は必ずあるといふ位澤山の柿であったが、此の柿の様な味の佳い柿は他に類例を見なかったのであります。毎年晩秋の候にはこの珍味の柿を採って先づ伊勢神社の神前へ奉献し、御師にも進上したとのことであります。

次で、この伊勢屋敷へ三州田原藩の藩士児島礼齋(編集部注‥礼順)高智といふ漢學者がて住むことになりました。村の人々は高智の學識を慕ひ就いて修學する者が多くありました。手習師匠としての高智は、村文教上に大なる貢献をのこした人であります。高智の下へ村内の寺子が集った頃には、伊勢社の神木柿の木は樹勢最も旺盛にして結実の盛んな時代でありました。師匠は神柿を採って先づ伊勢神社へ奉り、寺子と共に燒いて賞味したと言ひます。そして村内へは栽植を奨勵し、村人の需めるままに分け与へたのでありました。

この時分からこの燒柿が村内一般に認められる様になり、次第に植され改良に改良を加へて今日の盛大を致したのであります。今から六拾年程前までは燒いて食べたり、從の山柿と同じく串にさして乾柿として貯蔵してゐましたが、漸次改良され、殊に近年に至り栽培法や調製法、或は利用法等が研究されて実質外観共に備り、いつの時代からか市田柿の名を誇る様になったのであります。

市田柿の元祖たる実に伊勢神域の神木であったが、村民の篤い伊勢神宮への信心の力が村内普くひろがりゆく様と共に、ひろく植されてたのであります。かくも珍らしく不思議な柿が伊勢神社の域にあったことについては、傳説と古老の意見とを徴して見るに、一つはこの域に自然に生へて出たと思はれるといふことと、一つには御師が持ちって植えたか講中の人が参宮記念に献木したものであらうとの二つであります。

要するに市田柿の元祖は、伊勢宮の域に成長し、少くも百五十年以上の歳月を經て今日に至ってゐるのであります。

「市田柿」(昭和18年国民学校調べ、高森町歴史民俗資料館所蔵)より掲載。かなづかい、旧字は原文通りに表記し、句読点、改行は読みやすいように手を加えました。

武田彦左衛門氏略歴(『伊那』一九八五年三月号より作成)

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