市田柿のふるさとウェブ版
第2章 市田柿を育て広めた先駆者たち
市田柿を生産し、中央市場へ出荷した上沼正雄・鉄男親子、接ぎ木の技術を用いて苗木を販売した福澤利喜三郎・伝蔵親子、人脈を通じ市田柿の名声を広めた橋都正農夫、壮年団長として栽培農家を増やし、生産力向上に力を注いだ酒井安、立石柿の産地、飯田市三穂地区に市田柿を定着させた宮沢熊太郎ら、先駆者を紹介します。
市田柿の商品化につとめた第一人者、上沼正雄
息子・鉄男は、戦後、東京や名古屋の市場進出を果たす
上沼正雄・鉄男親子
●かみぬま まさお・てつお
上沼正雄さん、鉄男さん親子は、生涯をかけて市田柿を世に広めた先駆者としてたいへん重要な人物です。
正雄さんについては、鉄男さんの残したいくつかの文章によってその人物像を顧みてみます。
正雄さんは、明治四十年(一九〇七)頃、現在の高森南小学校と萩山神社の間に位置する「寺山」と呼ばれる斜面二ヘクタールを開墾し、焼柿(のちの市田柿)の苗木を二百本植えました。苗木二百本を自家用で用意するのは難しいため、同じ下市田にあった福澤柿苗園から苗木を仕入れたのではないかと推測されています。
柿の木が成長するまでの間、正雄さんは、すでに柿の産地として知られていた山梨県、岐阜県、福島県などを視察し、干柿の商品化に関して研究を重ねたそうです。ボルドー液での殺菌消毒、火力乾燥室や硫黄薫蒸の導入などは、飯田・下伊那地域では正雄さんが第一人者として試みた技術です。
そして大正十年(一九二一)、正雄さんが三十七歳の時に、橋都正農夫さん、酒井安さんらとともに下市田村の壮年団事業として「焼柿」から「市田柿」へと改称し、合わせて「上沼柿園」のラベルを作って東京や名古屋、大阪といった中央の各市場へ共同出荷を行いました。しかし、結果は失敗に終わったといいます。
正雄さんは、その後も各先進地の農法、加工法を視察し、研究を続けて市田柿の商品価値向上に努めました。後年は柿生産の手腕を認められて、北信地域や三河まで講師として出向くこともあったそうです。
息子の鉄男さんは、正雄さんが果たせなかった中央市場への進出を実現したことで知られています。
昭和十二年(一九三七)に正雄さんが亡くなり、若干二十歳だった鉄男さんは、幼い弟妹たちを養うために座光寺小学校で代用教員として働いていたそうです。本格的に農業を継いだのは戦後で、自家用分の水田のほか、桃、養鶏などを手がけました。鉄男さんの息子の君平さんは、昼も夜もなくいつも忙しく働いていた姿ばかり思い出すといいます。
鉄男さんは、近隣の農家でつくった市田柿を取りまとめ、自らが共撰の代表者となって名古屋の枇杷島市場や東京の神田市場へ共同出荷しました。当時、鉄男さんの知り合いが枇杷島市場で働いていたことも、市田柿が市場に受け入れられるきっかけになったと考えられています。また、市田柿の出荷量の多さを伝える話として、市田柿を満載したトラックが名古屋へ向かう途中に治部坂峠を越えられず、後ろから人力で押したというエピソードも残っているほどです。
戦後まもない頃も化粧箱での出荷が中心で、秋田杉材で化粧箱を作り、ワラを敷き詰めた上に干柿を並べ、さらにワラをかぶせてフタをしていました。箱のなかには、市田柿を紹介する小さなチラシが入り、化粧箱の表面には、「市田柿」と銘打ったラベルが貼られました。時代によって「上沼柿園」「市田柿製造組合」「市田柿生産販売組合」と出荷者の名前は様々に変化していますが、これらのラベルは、鉄男さんの兄で美大卒の俊次さんが描いたものだそうです。
現在の市田柿は上沼正雄さん、鉄男さん親子の生涯にわたる努力と活躍があってこそといえるでしょう。