「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第1章 市田柿の誕生

下市田の伊勢社から広まった焼柿

【児島礼順師匠によって村内へ】

伊勢社に生えていた焼柿の古木

江戸時代に入ると、市田郷では伊勢神宮への崇拝が広がり、あちこちで伊勢講が組織されました。江戸時代後期の文化の頃(一八〇〇年初め)、特に信仰の篤かった下市田の人々は、伊勢神宮より分霊を勧請して祠を祀ったと伝えられています。伊勢社と呼ばれた境内には、御師が寝泊まりするための建物が造られ、「伊勢屋敷」と呼ばれました。

市田小学校教師で郷土史家でもあった武田彦左衛門が昭和十八年(一九四三)に書いた『市田柿について』(38ページに掲載)という文章には、「…伊勢社の境内の東南隅に一樹の神木焼柿の古木がありました。この柿は焼いて食べても、乾柿としてもまことに美味しいものでありました。…」とあります。ここに出てくる「神木焼柿の古木」こそ市田柿の原木といわれている木です。現在は、伊勢社の祠は近くの萩山神社へ移され、伊勢屋敷も柿の古木も残っていませんが、武田彦左衛門によると昭和十八年の当時、樹齢は約百五十年以上とあり、ちょうど下市田に伊勢社が祀られた時期と重なっています。

伊勢社の焼柿の神木がどうして生えたのかについては、二説考えられています。一つは伊勢神宮の霊域に自然に生えてきたとする説、もう一つは伊勢詣での記念や御師によって植えられたという説です。美濃国(現在の岐阜県南部)はすでに柿の産地として有名でしたから、伊勢参りの帰りに美濃方面の柿を持ち帰って植えたという説が有力と考えられます。

焼柿を広めた児島礼順師匠

伊勢社の焼柿を村中に広めたのは、伊勢屋敷に住んでいた、三州(三河国、現在の愛知県東部)田原藩の元藩士児島礼順高智という漢学者だといわれています。寺子屋を開いていた礼順は、秋に実った柿を伊勢社へ供えた後、寺子と一緒に柿を焼いて食べたそうです。伊勢社の柿の木は、その食べ方から「焼柿」と呼ばれ、美味しいとの評判を聞きつけた村人によって接ぎ木で村中へ広まっていきました。
礼順に関する史料はほとんど残されていませんが、松源寺の過去帳に「麗道宗淳居士安政四年(一八五七)五月十八日没」という記録があります。伊勢社の奥には礼順夫妻と娘夫婦のお墓が立てられていましたが、昭和五十六年(一九八一)に遺族の手で根羽村へ移されました。

編集部注‥児島礼順の名前は、戒名では「麗淳」となっている。又、林唯介氏の先祖・権右衛門の娘と結婚し、林家の別家となった。

「焼柿」の記述が残る中村家の萬日記

江戸時代には、飯田・下伊那地域の広い範囲で立石柿がつくられていましたが、高森町下市田周辺では、江戸時代後期にかけて伊勢社の焼柿の評判が広まるにつれ、村内の立石柿は台木となり、しだいに焼柿へと接ぎ木されていきました。

「焼柿」の名称が登場するもっとも古い文献は、中村家の萬日記とされています。文政十一年(一八二八)三月十一日の日記には「雨ふり、源弥病気□□より定吉殿来り、焼き柿、ハちや柿、後生柿右三品つぎ木致し候」とあります。ハちや柿(蜂屋柿)は美濃地方が原産の渋柿、後生柿は奈良県御所村が原産の御所柿(甘柿)のことだと思われます。中村家の萬日記には、九月から十一月にかけて「柿落とし」「柿さし」「柿つくり」といった記述も見られ、日中に男たちが木をゆすって柿を落とし、夜には家族や親戚、近所中が集まって柿むきをして、翌日に柿を串に刺して乾す様子が記されています。

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