「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

TOP > 市田柿のふるさとウェブ版-目次  > 第1章 市田柿の誕生--干柿生産がさかんになった江戸時代

市田柿のふるさとウェブ版

第1章 市田柿の誕生

干柿生産がさかんになった江戸時代

【柿は年貢として納められた】

飯田・下伊那地域では立石柿の生産がさかんに

鎌倉時代以降の土豪で、戦国時代には飯田・下伊那竜東の地を領地として治めていた知久氏。知久則直は、関ヶ原の戦いで徳川家康軍に参陣し、旗本信濃衆として三千石を与えられました。その則直が大坂冬の陣(一六一四)の際に陣中見舞いを贈ったとされる武将、本多上野介正純、成瀬隼人正正成、土井大炊頭利勝、酒井雅楽頭忠世らの礼状が史料として残されています。本多上野介正純からの礼状には「吾音信串柿一箱被懸御意候遠路御懇志之段忝存候」と、「串柿一箱」とはっきり書かれています。

江戸時代に入ると、飯田・下伊那地域での串柿の生産はさかんになり、生産量はますます増えていきました。

江戸時代半ばに編纂された『本朝食鑑』では、巻之四菓部の柿の項目で生柿とともに乾柿についても紹介されています。尾州(尾張国、現在の愛知県西部)、濃州(美濃国、現在の岐阜県南部)、芸州(安芸国、現在の広島県西部)など各地の乾柿についての説明につづき、「また信州の立石に小串柿というのがある。…(略)…味が浅く、稍佳いものである」とあります。この「立石の小串柿」とは、飯田市三穂地域で生産されていた立石柿のことです。皮をむいた渋柿を串に差して乾燥させていたので、串柿と呼ばれていました。

柿を年貢として納めた柿相米

江戸時代の年貢は米で納めるのが一般的でしたが、飯田・下伊那地域では、穀類の次に干柿による収入が多かったこともあり、小物成(雑税)として干柿にも年貢がかけられていました。
大島山村、吉田村(ともに現在の高森町)にも、元和三年(一六一七)に飯田城主となった脇坂安元が、明暦二年(一六五六)に柿改を行った記録が残っています。

『大島山村柿改野帳』には、大島山村には三百二十七本の柿の木があり、そのうち生年の木は百八十八本、休年の木は百三十九本で、干柿の収量は二百三十七重二把といった内容が記されています。

柿に課される貢租は柿相米と呼ばれました。江戸時代前期の年貢徴収は、その年の収穫量を見込んで年貢率を決める検見法が主流で、柿相米も同様に、明暦二年の数値を基準に成木と休木の本数によって年貢が決められていたようです。吉田村の柿改帳を見ると、串柿一重(干柿四百個分)に玄米六合の割合で年貢が課せられていたことが明記されています。柿の木の本数によって年貢を課す方式は他国でもみられました。

その後、江戸時代後期には、過去数年間の収穫量の平均から年貢率を決める定免法が採用されるようになり、干柿も米と同様に、その年の収穫高と無関係に柿相米が定められるようになっていきました。

飛躍的にのびた生産量と価格

江戸時代には、現金収入を得やすい換金作物として、干柿を作る農家が増えていきました。「桃栗三年柿八年…」といいますが、柿を種から育てると収穫できるまでに時間がかかることから、すでに接ぎ木栽培が始まっていたようです。
寛政から文化年間にかけて(一八〇〇年初頭)柿の生産量が記録されている大島山大洞氏の『繭貫目諸作物覚』によると、串柿の収量は四十七~百八十九重とバラつきがあるものの平均では八十重以上になり、価格も一両につき五十~六十重と安定しているのがわかります。

江戸時代初期明暦年間(一六五〇年頃)には大島山村全体の串柿の収量が約二百三十七重(前ページ参照)だったことと比較しても、生産量の飛躍的向上は明らかです。

書籍「市田柿のふるさと」ウェブ版・目次に戻る

書籍「市田柿のふるさと」をウェブでご紹介

PDF版 書籍「市田柿のふるさと」

目次に戻る

第1章 市田柿の誕生

このページの一番上へ

運営者:高森町役場 〒399-3193 長野県下伊那郡高森町下市田2183番地1 代表電話:0265-35-3111