「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第1章 市田柿の誕生

江戸っ子に人気の立石柿

【立石寺には江戸の柿問屋が絵馬を奉納】

江戸でいちばん人気の立石柿

江戸中期の元文年間(一七四〇年頃)に発行された『信州伊奈郡郷村鑑』には「立石串柿、近藤氏領分立石ヲ其元トス。此近辺一二里四方ニ沢山也。下伊奈ニハ有レ共、上伊奈ニハ一切無之。風味他国ニ無之、甘キ白粉自ラ吹出シ、不思儀ノ甘味也。」とあります。今では飯田・下伊那地域で生産されている干柿の中心は市田柿ですが、江戸時代は「立石柿」が主流でした。「立石」とは、現在の飯田市伊豆木(三穂地区)の立石寺を中心にした地域の呼び名です。
立石柿は年末の頃に江戸へ出荷されました。、江戸のまちは「たていし、たていし」という売り子の声でにぎやかだったと伝えられています。


串柿は「く(苦が)し(死ぬ)」の語呂合わせから縁起が良いとされ、お正月の供物としても重宝されました。平安時代からの宮中行事に堅いものを食べて長寿を願う「歯堅め」と呼ばれる儀式がありますが、串柿は将軍家にもに献上され、「将軍の歯堅め」に使われたそうです。

立石寺に奉納された二つの柿の絵馬

立石寺は、平安時代に創建されたと伝えられる古刹です。本尊の十一面観音立像は、「柿観音」とも呼ばれ、柿とゆかりの深いお寺です。寺の縁起にも「…都より老人来たりて柿の実を植ゆ。世に立石柿というこれなり。この柿の実の余りを投げ打つ所に柿の木五本生ず。…(略)…この柿の実異郷へ移すといえども、味わい変じて熟せず…」とあります。

立石寺の山門には、江戸時代に奉納された大きな絵馬が二つ掲げられています。一つは「立石柿出荷天竜川通船絵馬」で、これは、山田河内村(現在の下條村)の仲買人佐野屋嘉蔵が世話人となって、天竜川通船の船頭や柿問屋らが天保九年(一八三八)に奉納したものです。南北に流れる天竜川をS字にデフォルメし、たくさんの船や馬、人によって立石柿が運ばれている様子が細かく描かれています。立石寺から南に下った、現在の下條村、泰阜村、阿南町、さらには県境付近まで描かれていて、下伊那郡の広い範囲で串柿が出荷されていたことを伝える貴重な史料となっています。

もう一つの絵馬は、江戸の四人の柿問屋が連名で奉納したものです。天竜川を通って駿河湾へ着いた串柿が海沿いに東京湾まで運ばれる様子が描かれています。絵馬を奉納した四人の柿問屋は、江戸でも有力な水菓子(果物)屋で、立石柿を江戸城に納める世話人として有名な人物でした。

船や馬に乗せて江戸へ、三河へ

立石寺の絵馬に描かれている通り、串柿は船に乗せて天竜川を下り、江戸へ運ばれました。農家は村の世話人の元へ出荷し、世話人は数人の仲間を作って江戸の柿問屋と取り引きをしていたようです。串柿の出荷と年貢の納入時期が重なっていた関係から、ほとんどの場合、代金は年末までに支払われたといいます。

一方、江戸時代には「中馬」と呼ばれる馬を使った輸送もさかんに行われていました。岡崎・名古屋へ通じる三州街道は中馬街道ともいわれ、飯田・下伊那地域から串柿などの農産物やたばこ、木地椀、元結を乗せた馬と、三河地方から塩や魚介類、砂糖、衣類を乗せた馬が行き交っていたといいます。

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