「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第4章 寄稿・資料編(先人の軌跡をふりかえる)

【資料】

市田柿の歴史について

上沼鉄男

上沼鉄男

今年の市田柿は豊産で、年末にお互いやり繰りの忙しい時、随分台所を賑にしたことと思います。平素は家の廻りに見捨てられ、黙って実っている柿も昨今は天下の市田柿として市場にアピールし、大手を振って通るようになりました。数年前は市場に巾がきかず、消費も僅かなものだったが、大新聞の市況欄にも堂々市田柿〇・一五K何円と載る様になった今、どうやって市田柿が育って来たか振り返ってみたいと思います。

私も終戦百姓でよくは知りませんが、見たり聞いたりした大体のことを話して見たいと思います。私の父は明治十七年(一八八四)に鎌太郎の長男として生まれて、昭和十二年(一九三五)に亡くなりましたが大正の初期に現在の下伊那農業高校分校の西側、通称寺山地帯の荒地の二町歩余を開墾し市田柿の前身、ヤキ柿を二百本程植込みました。当時としては随分思い切ったことをしたものだと私も思いますが、今になって見れば実に先見の明のあった立派な親父だと思います。随分批判もあったろうと思いますが、当時としては珍しい「ボルドー液消毒」も始めていた様です。私は丁度この時期にこの世に出て来たので以下は現在なお健康でいる母に聞いて当時を省みます。

只今は園芸試験場もあり、農協には技術指導員もいて各種の果樹栽培については至れり尽くせりの指導を行っていますが、当時は恐らくそんな便利な手段もなく、どうやって栽培法を研究したのかと思いますが、おそらく毎年々の経験を元にして、改良を重ねたものと思います。

いよいよ柿が成木になった時は、父は壮年時代になっており、大いに躍進の氣を高めて当時の壮年団事業の一つとして、現在の共販体制と変わらない共同出荷を計画し実行したそうです。所が武士の商法で経済界の仕組を知らなかったか、或いは輸送方法が現在程に完備していなかったか、製品の作り方がよくなかったか、見事に失敗して売掛金の回収も出来ず一度で解散の憂き目をみました。その時の欠損は全額一人で始末したということです。

以来父は援軍一人もなく恐らく世の人々の嘲笑に晒されたことでしょうが屈せずそれから父の活動が始まりました。当時の柿の先進地は山梨、岐阜、福島でした。山梨の火力乾燥、岐阜の硫黄燻蒸、福島の不身知と視察を重ねて、現在では柿栽培の常識となっている諸作業をとり入れ実施し、飯田町を主として、東京名古屋へ出荷して先進地のコロ柿と競争したとのことです。そして市場の意見をとり入れたり独創を加えて、遂に市田柿と名づけて二十ヶ入、五十ヶ入、百ヶ入と化粧箱を作りレッテルも考案して箱の内部には、(今の土産物には責任票が入っているが)当時すでに「上沼柿園」と銘打ち、市田柿の故事来歴や栄養価まで打込んだチラシを入れて出荷しました。そして、東奔西走した父は只売手だけでなく、漸くその手腕を認められて各地に柿の生産の講習を開き講師として歩いたようです、北信、三河そうして甲府まで逆に市田柿を宣伝していたようです。

今年の柿の出荷もいよいよ終りに近づき袋詰に追われ忙しさにまぎれ考えることもなく過ぎていますが、過程を反省してみると少なからず問題点が浮かび上がって来ます。要は生産者は喰べる人の身になって出荷し、農協組織は生産者の利益を考えて対応し、各々の責任を果たすということに尽きると思います。細かい点は柿部会やその責任ある人に研究して頂き来年再来年の出荷に良い成績を収めたいと思います。「市田の柿が入った。ソレ買え」と市場の仲買人がとんで来るようにしてこそ生産にたずさわる者の真価というものである。

庇を借りて母屋を取った形の他町村(豊丘、座光寺、伊賀良)が「市田にならえ」というようになってこそ、市田柿の本家本元だと鼻を高くすることが出来るのではないか。

上沼鉄男氏は、父・正雄氏とともに、市田柿発展の先駆者です(16ページを参照)。鉄男氏は、生前にいくつかの文章を書き遺しており、正雄氏の活躍が伝わる貴重な資料として、掲載しました。

柿すだれ

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