「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

序にかえて

市田柿の由来研究委員会長 
北沢富夫

北沢富夫

幼少の頃、母の実家の裏山に大きな立石柿の木があり、色づいた頃、柿採りに籠を背負った祖母のあとを竹竿を持ってついて行った。そして柳のように枝垂れた柿の実を竿でたたいて落とすのを、拾い集めて籠に入れ、重たそうに背負う祖母のをあとをついて山を下りた思い出があります。また、子どもたちのオヤツ代わりにと少し粉の出た柿の皮を着物の揚げの中に詰めこんで食べながら遊んだりもしました。
この地方では、柿は秋の季節とともにみんなの暮らしの中に深く溶けこんだ風物でした。

話は少し変わりますが、市田柿を生んだ伊勢屋敷のあった所を探している時、柿を広めた児島礼順師の一人娘で「華岳妙栄大姉」の過去帳の写しを松源寺からいただきました。それによると亡くなったのが文久元年十一月で、麗淳娘・麗齊女房、亡くなった所が「下市田村辻」と簡単に記されていました。これは松岡城へのぼる縦道と竜西線の辻かと最初は思いましたが、竜西線の開通するのは明治三十年以降であり、間ヶ沢の古道(東山道)との交差点を昔は辻と呼んでいたのではないかと思います。また、伊勢屋敷の隣りに、山口なみ(万延元年生まれ)という人の土地があり、その父親は政治郎といい、出砂原がまだ山林で、全体の地籍が一筆(二九六四番地、現在二四一筆の枝番)の頃、天龍端に出て田村と出砂原の渡船業をしていて、出砂原のごく初期の開拓者が間ヶ沢から出ていたことがわかりました。

明治の終わりから大正期になると、天竜川に明神橋がかかり、組合製糸が生まれ、各家に電灯がつき、伊那電気鉄道が開通し、農業試験場設置など、次々と紙面をめくるように伊那谷は黎明期を迎えます。それと期を一つにして、下市田の気鋭の壮年有志が血のにじむような努力で商品「市田柿」を生み出します。

今回、高森町が「市田柿の由来研究委員会」を作り、市田柿の生い立ちや、これに関わった人たちを明らかにしました。豊かな資質を備えたこの「市田柿」が今後一層、皆さまに親しまれ広まることを願っております。

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