「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第3章 全国ブラントへの道のり

製品価値を高める、技術の開発

【硫黄薫蒸法と優良母樹の選定】

殺菌・漂白作用のある硫黄薫蒸法

終戦とともに、果樹の生産・販売に関する統制が廃止され、果樹栽培はいっそう注目を集めるようになりました。病害虫防除、施肥、整枝・剪定のそれぞれの技術が確立され、普及しだしたのも戦後のことです。市田柿も、栽培技術の向上によって隔年結果を防ぐことに成功し、大きさのそろった果実が安定的に収穫できるようになりました。

しかし、主に自家用に生産されていた市田柿は、加工時の天候によって干し上がりの色や堅さにばらつきが出てしまうため、製品の品質向上はさらなる重要課題と考えられていました。

そこで、昭和二十三年(一九四八)から三年間、県立農事試験場下伊那分場で市田柿と平核無の硫黄薫蒸の調査・試験が行われました。硫黄薫蒸とは、硫黄を短時間で燃焼させ、発生した二酸化硫黄で薫蒸する方法です。皮むき直後に行うことで殺菌と漂白作用が働き、カビ予防や鮮やかな飴色に仕上がるといった効果が認められていました。福島県で生産されている「あんぽ柿」などではすでに大正時代から導入されており、飯田・下伊那地域でも下市田村の上沼正雄らが取り組んでいました。

試験場では、当時の園芸部長・三石勝治を中心に研究が行われ、市田柿の品種に合った硫黄の使用量や薫蒸時間、干し上げ時の品質などが調べられました。研究の結果、昭和二十六年(一九五一)から市田柿に適した硫黄薫蒸法が農家へ普及されました。硫黄薫蒸を施した市田柿は見た目が秀逸で市場では高値で取引されましたが、薫蒸庫などの設備が必要な点や作業工程が増えることへの抵抗などにより、定着するまでには十年ほどかかったといいます。

当時の食品衛生法では亜硫酸類の使用基準を三十ppmと厳しく制限していたため、薫蒸から二十日以上経過しないと残留分が違法となる恐れがありました。昭和四十四年(一九六九)には、二酸化硫黄残留量の問題で出荷停止になったこともあります。

製品価値をいっそう高めた優良母樹の選定

市田柿の優良系統選抜は、市田柿の製品としての統一をはかり、市場の果実の大型化への要望に対応するのを目的に、昭和二十四年(一九四九)と昭和四十一?四十三年(一九六六?一九六八)にかけて実施されました。「果実の肥大さ」「隔年結果が少ない均産性」「干柿としての品質」などの観点から、調査項目も、果実の重量・果形・熟期、糖度・干柿に加工した際の歩止まり(乾燥度合い)・果肉色・食味など多岐にわたっています。

その結果、松川町や豊丘村、県立農事試験場などにあった六樹が優良系統として選抜されました。選抜された優良系統は、昭和四十四年(一九六九)に長野県の優良母樹に指定され、育苗業者への穂木の配布を通じて各地に広まっています。

当時は、DNA鑑定といった技術も発達していなかったため断定はできませんが、春日一男の父・富治は、焼柿の原木が生えていた土地の所有者、橋都家の出身ですし、市岡幹人の祖父は、県立農事試験場下伊那分場で働いていた経緯もあります。さらに、試験場の柿の木は、設立委員長をしていた橋都正農夫の関係で植えられたともいわれており、いずれの優良系統も「伊勢社の焼柿」の原木から接ぎ木によって広まったのではないかと考えられています。しかし、優良系統六樹は富士型や卵型など果形もまちまちで、今後の調査が必要とされています。

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第3章 全国ブランドへの道のり

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