市田柿のふるさとウェブ版
第3章 全国ブラントへの道のり
柿生産量の飛躍的増加
【樹園地栽培と包装形態の変化】
土手や畦での放任栽培から樹園地栽培へ
昭和初期の世界恐慌で打撃を受けた養蚕業は、戦後も衰退の一途をたどりました。その結果、養蚕用の桑は次々と切り倒され、リンゴや梨、柿といった果樹園に切り替えられていきました。柿は、ほかの果樹にくらべて年間を通じて手間がかからないことから、新植が一層進みました。また、市田柿は乾燥期間が短くて済み、他県の干柿よりも早い時期に市場に出荷できることから市場での評価も上々で、柿農家の増加へ拍車をかけました。
ちょうど経済連や農協による共販体制が整い始めた時期とも重なり、名古屋の枇杷島市場や大阪の天満市場への出荷量は急増しました。自家用として定着していた干柿づくりは、「市田柿は冬のボーナス」といわれるほどの高収入を農家へもたらすまでに成長したのです。
そんななか、高森町では養蚕から酪農へ転換し、市田柿と兼業する農家が多く見られました。耕地への新植(樹園地栽培)は、昭和三十五年(一九六〇)頃から急速に広がったといわれています。元々、下市田駅付近の第二段丘とその上の第三段丘には市田柿が多く植えられていましたが、栽培適地が標高五百五十メートル以下と拡大したのを受け、昭和四十年代には伊那南部広域農道(南信州フルーツライン)辺りにも新植されました。
こうして、「土手果樹」「放任柿」と呼ばれ、ほとんど手入れをされていなかった市田柿は、『よい干し柿づくりは、よい原料柿生産から』のキャッチフレーズのもとに「樹園地栽培」へと変貌し、品質・収量ともに新しい一歩を踏み出すことになったのです。
袋詰めで出荷量は飛躍的に増加
市田柿の包装形態は、時代とともに様々に変化しています。
大正十年(一九二一)に上沼正雄らが初めて出荷した際には、杉板の化粧箱に二十五?五十個詰めでした。杉箱は秋田杉を使い、米を接着剤に使って組み立てたという話も残っています。
昭和に入ると、紙の折箱も登場しました。紙箱も木箱も、組み立てた箱にワラを敷き、市田柿を一段または二段並べて、さらにワラを詰めてふたをしていたようです。もちろん、箱を組み立てるのは農家の作業でした。
戦後、共同出荷が主流になると、秀品は化粧箱、優品は半石箱(石油箱の半分の大きさの木箱)、良品は石油箱(石油の一斗缶が二つ入る大きさの木箱)に詰め、それぞれをバラ(一個単位)出荷するようになりました。木箱の組み立て作業は重労働な上、濡れないよう室内に保管しなくてはならないなど不便な点が多く、さらに市場や小売店からは、「衛生的でない」「量り売りが面倒」といった苦情も寄せられ、包装改善は早急の課題とされていました。
そんな時に登場したのが、段ボールとセロハン袋です。段ボールは折りたためるので場所をとる心配もなく、組み立ても容易な点から一気に需要が高まりました。セロハン袋は、水分は通すが細菌は通さないという特徴を生かして採用されたものです。昭和三十二年(一九五七)にセロハン袋百五十g入り、段ボールに五十袋詰めへ統一が図られました。細長い筒状のセロハン袋に市田柿を詰めるのは煩わしい面もあったようですが、市場や小売店からは「衛生的で量のばらつきがなく、品質が一目でわかる」と好評で、これをきっかけに東京方面への出荷量が飛躍的にのびたといいます。
昭和四十八年(一九七三)からは、百五十gから二百gへと増量し、包装も手間のかからないパック詰めへ移行しました。