「市田柿」発祥の里 長野県高森町-市田柿のふるさと(ウェブ版)

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市田柿のふるさとウェブ版

第3章 全国ブラントへの道のり

地域ブランド認定で伊那谷から全国へ

【産地が抱える問題点と展望】

飯田・下伊那地域の干柿を「市田柿」に統一

干し上がりの色や味が良く、立石柿よりも果実が大玉な市田柿は、次々と農家に受け入れられ、飯田・下伊那全域で立石柿から転換されていきました。昭和四十年(一九六五)には、生産量の増加と販路の拡大を受けて、飯田・下伊那地域で生産される干柿のブランド名が「市田柿」に統一されています。しだいに高級菓子としてのイメージも定着し、商品作物としても認められるようになっていきました。

昭和五十年代には火力乾燥法や消毒法の改良が行われ、大型の柿乾燥施設(通称、柿ハウス)の導入や品質検査体制の整備が一段と進みました。こうして飯田・下伊那地域は、日本有数の干柿産地へと成長していったのです。

長野県第一号の地域ブランドに認定

平成十八年(二〇〇六)は、市田柿にとって大きな転機となった年です。地名と商品名を組み合わせた「地域団体商標登録制度」がスタートし、十月には特許庁から長野県唯一の地域ブランドとして認定されました。伊那谷の秋の風物詩「柿すだれ」に代表される地域とのつながりや、長野冬季オリンピック(一九九七年)の歓迎レセプションで各国の代表選手に市田柿を配ったり、韓国などアジア諸国での販売など、国内だけでなく世界へも目を向けた取り組みが評価されたといえます。

翌年には、地域ブランドとしての価値や生産力向上に向けて「市田柿ブランド推進協議会」が設立されました。「原料の柿、製造地域ともに飯田市・下伊那郡地方に限る」などの市田柿の基準が設けられたほか、栽培から加工に関する研修会や衛生管理の徹底、ブランドとしてのPR活動などが活発に行われています。市田柿のロゴマーク作成や、海外での商標取得など、ブランド価値向上に向けての今後の課題は山積していますが、「市田柿」の名称は確実に広がりました。

市田柿発祥の里である高森町でも、町商工会オリジナルの市田柿ギフト販売や、「市田柿の由来研究委員会」の発足、高森町歴史民俗資料館の特別展「市田柿発祥の里」開催など、地域全体の活性化に向けてさまざまな活動が行われています。

深刻化する後継者不足問題

地域ブランドの取得によって、国内外からの注目が高まった一方、産地ではさまざまな問題に直面しています。

第一に、市田柿の生産は天候に左右されやすく、品質と生産量が安定的でない点です。地球温暖化も懸念され、収穫後に気温がある程度低くならないと干している間にカビが生えたり、十分な乾燥がされず堅くなり品質が低下するなどの問題があげられています。

第二には、「市田柿の品質基準」の明確化です。色、形、大きさ、柔らかさなどは数値化するのが難しく、地域で共通の基準が確立されていないため、商品価値が安定しない面は否めません。

第三は生産農家の高齢化と後継者不足です。JAみなみ信州が柿の生産者(約二七〇〇戸)を対象に行ったアンケートでは、生産者の七割を六十代以上が占めている現実が明らかになりました。また、生柿生産をやめる理由に、「高齢化」と「後継者不足」が上位にあがっています。衛生管理の徹底や機械化、温暖化対策などで新たな設備導入の必要があっても、後継者不在の不安を抱えて新規投資に戸惑う農家が増えているのが現実です。

しかし最近では、新たな「担い手づくり」に関する明るいニュースも聞こえてきています。生柿を買い取って加工作業を請う農業法人が増え、離農者から土地を借り受けて引き継ぎ農家をあっせんする「市田柿登録銀行制度」も始まりました。農家にとって負担となる選別や出荷作業を担う「JAみなみ信州干し柿集出荷貯蔵施設(通称・柿の里)」も平成十五年(二〇〇三)から干柿の受け入れを開始し、順調に稼働しています。ここ数年は、生産者の高齢化を反映し、予想以上の量の市田柿が持ち込まれているそうです。

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